れいわの大西つねきさんの「命の選別」発言
れいわ新選組の、前回の参院選の候補者だった大西つねきさんの発言が一部で話題になっています。(当該動画は削除されているので、コメント欄にIWJさんによる、大西発言書き起こしのある記事を貼りつけておきます。7/12まで無料公開です。)
大西さんは、「政治が命の選別すべき」と言い切っていて、さすがにそれは言い過ぎだから配慮にかけた発言だったと私は思います。
しかし、ここぞとばかりにその部分だけを切り取って「ナチスばりの優生思想だ」とバッシングして終わりにするのは不毛だと思います。
もちろん、政治家は発言を切り取られ、失言1つで進退が決まったりする職業です。なので、応分の責任はとるべき問題でもありますが、
真意は、コロナや介護で、若い医療従事者や家族が高齢者をどこまでも支え続け、どこまでも延命し続けることが正義になるのか、という問題提起かと。現実問題として、ベッドの数には限りがあり、そこにお金と人をどこまで投入するかは、政治の判断の問題だと言いたかったんだと思います。
それでも、あくまでも命の問題は「政治が選別する」のではなくて、「状況を整える」のが政治の役目。
生命が救われ、本人の意思が尊重されたり、医療従事者が仕事をしやすくなるように、状況改善の努力をするのが政治に求められる役割だと私は思います。
命の最期をどうむかえるかは、本人の意思と、家族の想いの中で決められること。
そこをはき違えると、政治が人に寄り添うものではなく、上から目線の施しを与える、人を選別するものになってしまうと思う。そこが大西発言は「優生思想だ」と危惧する人たちの指摘するポイントなのでしょう。大西さんに政治に携わるものとして、「選別する」主体、という奢りがあったのでは。振り返りと反省が必要なのではないでしょうか。
人間の尊厳の問題、生きる権利、延命治療をどこまでやるのか、安楽死、尊厳死、コロナ禍の中でのトリアージ問題、死生観の問題。本人意思と家族の意思と、医療従事者の判断と、政治のやるべきこと。
バッシングする側は叩き、叩かれた側は炎上を恐れて謝罪してなかったことにするのではなく、これをきっかけに「死」について、医療の役割について、中身の議論を深められたら。
「コロナは風邪」とか「スウェーデン素晴らしい」と主張している方は、どちらかというと大西発言擁護の発想になると思います。
スウェーデンには寝たきり老人はほとんどいないそうです。「寝たきり老人」という概念がない。延命治療をしないで、胃ろうもせず、自分で食べられなくなったらそれまでという医療です。コロナ対応でも、80歳以上にICUの延命治療はしません。60〜80歳でも、明確にトリアージの判断基準があります。
もっと命は自然に淘汰されればいい、無理に延命しなくていい、という発想。現代の日本のなるべく生かす医療、延命治療、死生観とはかなり隔たりがあります。
私は「コロナは風邪」とは思わないし、スウェーデンの価値観をそのまま死生観に隔たりのある日本に当てはめることはできないとは思いますが、本人の意思を確認せずにどこまでも延命治療する医療、「寝たきり大国」といわれる現状には疑問を感じています。
あなたは、スウェーデンは「ナチスばりの優生思想」だと感じるでしょうか?
スウェーデンは、死をもっとナチュラルに、普通のこと、日常のこととして捉えているのだ、と感じます。
「ナチスばりの命の選別」と、ここぞとばかりにレッテルを貼り、近親憎悪のように叩くのではなく、
これをきっかけに「死」をタブー化することなく、死生観について、命の尊厳について、生命倫理について、議論が深まることを望みつつ…